美と自然
2009.07.28
地球の資源が有限だなんて、いまや誰もが知ってる、いや知ってなければならない常識。だからこそエコカーが売れるのだし、レジ袋の削減運動が盛り上がる。ただ、もどかしいのはその「有限さ」をまだ感覚的に実感できないこと。例えば石油は枯渇しかけていると言われるのに、地下をのぞいて「あと10年だ」なんて判断できる人はいない。それは生物多様性もしかりで、種の減少を誰もが目で確かめ、体で感じるなんて、できたらいいのに、実はなかなか難しい。そんな「資源の有限性」を、圧倒的に感じられる場所がある。そう聞いて、「焼き物のふるさと」の奥深くに分け入った。
瀬戸焼の原料となる陶土を採掘する愛陶工の鉱山=愛知県瀬戸市で Photo:©Taketo Sekiguchi
愛知県瀬戸市。言わずと知れた焼き物の代名詞、「瀬戸物」の産地。名古屋の北東約20キロ、三国山(標高701メートル)や猿投山(同629メートル)などの小高い山に囲まれ、東西に瀬戸川が流れる穏やかな土地だ。
平安時代中期から1300年の歴史を持つ瀬戸焼は、幅の広さ、懐の深さがまさに売り物。中心街には茶碗や湯飲み、花瓶や置物など、焼き物なら「何でもあり」の直売所や工房が立ち並ぶ。
そんな昔ながらの風情を残す街並みを一歩抜け出し、住宅や工場が点在する山の手側を目指す。大小のトラックが土煙をあげて行き交い始める道に入ると、とたんに乾いた空気が立ち込んでくる。
道路脇に現れた鉄扉をくぐったその瞬間。今まで視界にあった山の緑が、ぽっかりと消えうせた。かわりに目に飛び込んできたのは、延々と広がる白い岩肌と、所々に湛(たた)えられた薄茶色の水。
「ここが瀬戸焼の原料となる粘土など陶土類の採掘場。われわれの組合の鉱山と民間や愛知県の現場がつながっているので、かなり広く見えるでしょう」
作業着姿でこう解説するのは瀬戸の陶磁器生産者ら約400人でつくる愛知県陶磁器工業協同組合(愛陶工)の常務理事、岡田正人さん。焼き物の原料調達を担う陶土事業の責任者の一人だ。その岡田さんに今回、無理を言って立ち入らせてもらったのは、組合が1981年に採掘を開始した「陶組(とうくみ)第1鉱山」と、2001年から採掘している「暁(あかつき)鉱山」。合計約8万平方メートルの敷地から、2008年度には約3万トンの陶土類が採掘され、組合の生産者に供給された。いわば瀬戸窯業の「原料供給基地」だ。
何といっても、この光景。
これを荒涼たる、あるいは殺伐とした、などと表現していいどうかは迷うところ。だが、圧倒的な迫力があるのは間違いない。
瀬戸地区でこうした鉱山は20カ所近くあるとされ、焼き物産地としては当たり前の光景に近い。ただ、ガラス原料である珪砂(けいしゃ)を主に採掘している別の組合の現場は、とりわけその壮観、奇景が「瀬戸のグランドキャニオン」などと名づけられ、全国的にも知る人ぞ知る「名所」となった。自然と人為が融合した不思議な魅力をうまく言い表している-。などというのは、あくまでよそ者の勝手な見方だ。
古来から陶磁器産業で栄えてきた瀬戸の住民にとって、鉱山開発は不可避の営み。しかし環境意識の高まってきた近年、特に瀬戸市内も一部会場となった2005年の愛・地球博(愛知万博)の前後は、新たな鉱山開発をめぐって地元住民らによる激しい反対運動も巻き起こった。
「その、環境問題ということになると...。難しい立場ではあるんであまり誤解のないように...」
岡田さんたちを追及つもりはないのだが、ここがかつては緑の山で、そこに生い茂っていた木々や草花が失われ、駆け回っていた多様な生物たちがすみかを追われたことは事実。その山の恵みが瀬戸の産業を支えてきたことも事実。
しかし、瀬戸というこのモノづくりの地は、「保護か開発か」という単純な二項対立には落とし込めない、複雑で微妙な歴史をたどってきたこともまた事実なのだ。
瀬戸の地下に広がるのは約500万年前の花崗(かこう)岩が風化して粘土や砂、小石になり、長年の風雨や河川の働きで琵琶湖の6倍はあったとされる湖に運ばれ、堆積した地層。その厚さは20~30メートルほどで、下部には花崗岩が完全に風化、分解した粘土層がある。これが木節(きぶし)や蛙目(がいろめ)と呼ばれる良質な陶土で、瀬戸焼の発展を支えるまさに"お宝"であったといえる。
しかし江戸時代以降、瀬戸焼の大量生産体制の確立とともに陶土採掘と窯焚(かまだ)きの燃料としての木々の伐採によって、山の荒廃は極限にまで達した。
「瀬戸の山は皆はげ山」とまで言われたそうである。
市内の産業観光拠点施設「瀬戸蔵」では昭和の最盛期のころの石炭窯などを再現展示している Photo:©Taketo Sekiguchi
『瀬戸市史』によれば、はげ山は瀬戸地域だけで4000万平方メートルに及んだ。大雨のたびに山が崩れ、人々は甚大な被害をこうむった。あまりの荒廃ぶりに、江戸後期には陶業を制限するよう、地元の村から訴訟が起こされたという。
見かねた人々によって、治山の取り組みは始まった。明治期からは国が本格的な復旧工事を進め、国有のヒノキ林が造成されたのをはじめ、各所でスギやクロマツなどが植えられていった。
つまり、今見える瀬戸の山は、ほとんどがそのころから整備された人工林なのだ。
緑を取り戻した山で、人力に頼っていた陶土採掘の現場は機械化が進み、鉱山はより効率的に管理されるようになった。
戦後の経済成長にともなって、生産量は右肩上がりに増加。海外への輸出も好調で、1975年ごろには生産量がいったんピークに達した。その後二度のオイルショックで需要はいったん落ち込んだが、景気の回復とともに1980年ごろから再び生産増に転じ、85年ごろにはピーク時の水準に戻った。
ところがその後、急激な円高が大打撃となって海外輸出が激減。国内でも中国や東南アジアの安価な輸入品に押され、瀬戸物の需要は一気に縮小してしまった。
気がつけば、足元の日本文化にも大きな変化が押し寄せていた。和食器から洋食器、プラスチック食器へ。和食から洋食、そしてコンビニ食へ-。
瀬戸に拠点を置く愛知県陶磁資料館の仲野泰裕副館長は嘆く。
「器を楽しみながら食す、という日本人の食文化はすっかり失われようとしている。食は生きる原点であり、それにかかわる焼き物づくりはモノづくりの原点でもあるのに」
そしてこう訴える。
「焼き物は割れるのが弱点だけれど、割れるからこそ大事にするもの。四季の移ろいや、食器や箸を個人単位で決める日本の繊細な文化は、デリケートな焼き物の器でしか伝えられない。作り手も、もっと危機感を持ってもらわなければ」
採掘されたばかりの黒々とした木節粘土を手にする岡田さん=愛知県瀬戸市で Photo:©Taketo Sekiguchi
陶土採掘場を見る限り、そこは決して生やさしい現場ではない。
土の品質の良し悪しは、1人の重機オペレーターが、広大な鉱山から微妙な色や質感から選り分ける。作家的な生産者によっては品質に徹底的にこだわり、細かい注文を寄せてくる。それに応じるため、広大な現場では重機を動かしては止め、品質を確かめ、また重機を動かす作業が繰り返される。その「職人」感覚は、いくら機械化が進んでも効率的にはなり得ない。
「やっぱり土が命ですから」
岡田さんは、採掘されたばかりの黒々とした木節粘土を手にしながら言った。
愛陶工の陶土類の出荷量も、1985年度の58万トンから98年度には18万トン、2007年度には12万トンにまで急減している。
一方で、組合の二つの鉱山のうち「陶組第一」はほぼ採掘を終え、つまり土を取り尽くし、一部で埋め戻しを始めた。元のような山林に復旧する予定だが、周囲の他鉱山との調整などもあって、実際の植林にまでは至っていない。
「掘り尽くしたら、埋め戻して復旧するまでが鉱山事業。気の長い話ですがね。陶土は有限だけれど、需要量が下がっているので切迫感というのはありません。瀬戸の陶土はここにしかない最高の品質。とはいえ粘土は粘土。『レアメタル』とは違いますからね」
と笑わせる岡田さん。
自然もタフなら、人間もタフ。そうでなければ、1000年も続くモノづくりは成り立たなかったろう。あるいは、1000年のモノづくりが、人も自然もタフにしたのか。
市内最大のイベントである「せともの祭」が9月12、13日に開かれる。今年は少し新鮮な気持ちで、足を運んでみたい。
Written by 関口威人(ジャーナリスト)